日本は18世紀末、当時の江戸時代にチョコレートが伝わったといわれています。鎖国のもと海外と唯一の窓口であった長崎に遊学していた京都の街医、廣川獬「長崎聞見録」(1797年)には「しょくらとを」とあり、現在の言葉では「チョコレートはオランダが持ってきた、動物の角のような形をした腎薬で、色は生薬の阿仙薬に似ている。味は淡泊で、熱湯にチョコレートを1cm削り入れ、そこに卵1個と砂糖を少し加えて茶筅を使って蟹の泡のように泡立て、よく混ぜる」と記された文献が残されています。
↑蘭療方
↑長崎聞見録
廣川獬が長崎に滞在したのは、オランダでココアが開発される直前。当時ヨーロッパで薬品として飲む習慣が広まっていたドリンク用のチョコレートを固めたもののことだと考えられます。
その他にも、彼の「蘭療方」や「蘭療薬解」でもチョコレートを扱っており、また、長崎の遊女がオランダ人からもらった物として、寄合諸事書上控帳(1797年)に「しよくらあと 六つ」とも記されています。
オランダ人が日本にもたらしたチョコレート。
この頃のオランダは、1609年に事実上の独立を達成し、オランダ東インド会社、西インド会社による国際的な貿易が活発になっていました。オランダは商業の繁栄に加えて、新世界から流入した物産を、国内で加工し製品化する工業が発達し、優位に立っていた頃です。
当時、社会上層部だけが享受していたカカオは貴重な商品として、砂糖と一緒にヨーロッパへ輸出されていたのですが、オランダのカカオ入手ルート拠点になったのは、今もオランダの一部であるカリブ海のキュラソー島。ベネズエラの北約60kmに位置する島で、当時オランダに入ってきたカカオはベネズエラ産のカカオがほとんどを占めていました。“オランダ人はベネズエラの主要なカカオ農園に至る道すべてに通じている」と評されるほど、ベネズエラのカカオ輸出に深く関わりました。
ベネズエラを代表するカカオの品種は、メソアメリカ(メキシコおよび中央アメリカ北西部)原産の「クリオロ種」です。
廣川獬が長崎聞見録に記している「味は淡泊で…」から推測すると、かつての文明から飲まれていた、苦味の少ないマイルドな味わいのクリオロ種カカオの可能性を感じます。
現在は、世界で1%未満しか栽培されていない希少種です。(関連レポート:
「カラフルなカカオ豆の世界」)
もしそうだとしたら、羨ましい限り!現在、出回っているクリオロ種以上に混じりっけのない完全なるピュアなクリオロ種のカカオ豆かと思うと・・・味わってみたいですね!
ヨーロッパのチョコレート革命の歴史を見てみると、
1528年 エルナン・コステスがスペインに初めてカカオを持ち込む
1580年~ ショコラトル(チョコレートドリンク)がスペインからポルトガル、イタリアと他ヨーロッパ諸国へ持ち出され、欧州の上流階級の間で浸透していく
1635年 ベルギー最古のチョコレートが誕生
1659年 フランスで始めてのショコラティエが登場
1728年 イギリスで初めてカカオ豆を加工し粉砕するチョコレート工場開設
1778年 フランスで初めてカカオ豆を自動的にグラインドする初の油圧式機械を発明
1828年 オランダ人C.J.ヴァンホーテンが、生産に大きな影響を与える革新的なカカオ絞り機でココアバター(油脂)とカカオリキッド(固形分)が分離できる製法を発明(*カカオリキッドをパウダー状にしたものがココアです。)
17~19世紀までチョコレートは、薬品として販売され、他の薬剤と調合されることが一般的だったのですが、ドリンクで飲む際、水分と混ぜると油脂が浮き出て、とても飲みにくいものでした。チョコレートが普及するにつれ、もっと飲みやすくする工夫が必要になったのですが、このヴァンホーテンの発明により、その課題が改善され、より幅広い人々へ浸透していったのです。
そんな発明国オランダの影響を受けたのが、江戸時代の日本。
医学はもちろん、食材、ガラス製品、娯楽のビリヤードやバトミントンなど多くの西洋文化が日本に伝えられました。
参考文献:長崎街道
鎖国時代オランダ人は、貿易を許されている御礼言上のため、江戸に上がって将軍に謁見する義務がありました。慶長14年(1609年)に始まり、寛永10年(1633年)から毎年、寛政2年(1790年)からは5年に1回に改められ、幕末の嘉永3年(1850年)まで続きました。
長崎から江戸まで約二ヶ月かけて、長崎から小倉の“長崎街道”を通って、下関、兵庫、大阪、京都を経て江戸に上がりました。オランダ商館長をはじめ、医師、書記、助役、筆者、大通詞、献上物を運ぶ人、料理人など総勢60人にも上回る大人数で、大名行列に準じた格式で参府したのでした。
参考文献:長崎街道
長崎街道は、江戸時代から異国情緒のかおり漂う港湾都市長崎と、当時世界最大の人口を擁した日本の政治的中枢都市江戸とを結ぶ九州内陸部での道筋のこと。異文化の情報路として、また日本最重要の幹線道路として政治・外交・経済・文化面で特筆すべき地位を占めてきました。それは、日本の近代化を促進し大変革をもたらす原動力となった諸勢力を、急速に発達させる役割を果たし、日本の各地域に重大な影響を与えたことで知られています。
天文12年(1543年)ポルトガル人が種子島に漂流して以降、ポルトガル人やスペイン人との間で南蛮貿易が盛んになると、生糸や砂糖、薬品、香料などが輸入されていきました。輸入品のなかで代表的なものの一つが砂糖。高価で珍重されていたため、その一部は江戸参府の際の贈答品などとして将軍や幕府の役人へ贈られたり、道中お世話になった人々へのお礼、また、長崎でも役人への贈り物とされていました。当時、貴重な砂糖をたっぷり使うことは、相手に対する心からのおもてなし。徳川幕府はサトウキビ栽培と砂糖の製造が奨励され、寛永16年(1639年)鎖国政策後も日本に砂糖が定着するようになりました。
長崎街道の沿線上には砂糖の伝来がもたらした銘菓など、砂糖文化が今も残っています。このことから長崎街道、別名“シュガーロード”として、2020年に日本遺産に認定されることになりました。(シュガーロード:
http://sugar-road.net/sugar-road/)
カカオ研究所が生れた“飯塚”は、福岡県筑豊地区の政治・経済の中心機能を持つ都市で、長崎街道のど真ん中である筑前六宿の更に中央に位置する宿場町でもありました。
毎年の江戸参府には、ここ飯塚宿を利用し、従来したオランダ商館医師として、ケンペル(元禄4・5年/1691、1692年の2回)やシーボルト(文政9年/1826年)、オランダ商館長チチング(安永8年/1779年と天明元年/1781年の2回)、ゾーフ(文化3年/1806年)などの旅行記録が残っています。飯塚宿には、オランダ人専用の宿泊施設まで設けられていました。オランダ屋敷と名の付く施設は他の宿場にはなく、飯塚だけなのだそうです。
↑現在も飯塚市の長崎街道沿いに残っているオランダ屋敷跡
1606年欧州の貴族の間でショコラトルが浸透していた頃、蘭医ケンペルが飯塚宿に宿泊しています。ケンペルは、日本に来る前、欧州貴族の専属医者でもありました。そのことから、長崎にいた頃はすでに、下記イラストのように、日本でも蘭医によってチョコレートが日本人にも処方されたり、処方薬として常備されていたのではないかと思えてきたのです。
そこで、これまでの文献から、いまだ探しており確たる文献記録、証拠は得ていませんが、下記3つの仮説を立ててみました。
仮説①:もしかしたら、鎖国時代にオランダ商館の医師として滞在していたケンペルやシーボルトが、長崎街道を通って江戸参府している道中、体調が悪くなった人へ薬としてチョコレートが処方されていたのではないだろうか?
仮説②:江戸参府の際、常備される薬箱の中にチョコレートが入っており、飯塚宿(飯塚市)に降り立ったのではないだろうか?
仮説③:長崎の遊女がオランダ人からもらった日本最初のチョコレートとして記録されている1791年よりも前、蘭医ケンペルの江戸参府の時には、すでにチョコレートは日本に上陸していたのではないだろうか?
研究は仮説から始まる。
私達はこの仮説を立て、長崎街道を“日本のチョコレートロード”として、いつか証明できる日を思い描き、歴史の観点からもカカオ、チョコレートを発信し、日々研究していきたいと思っています。